2014年10月22日水曜日

御無沙汰のご報告…w

ここしばらく、御無沙汰をしてしまいました。
…いつもじゃん!というツッコミがありそうですがw

去年、階段から落ちるという事故に遭い、退院後にウチで療養していた私の母が
だいぶん回復したから独居していた団地に帰りたいと言い出したのですが…。

しかし、お医者さんや介護士さん から見ると素直に良いよとは決して言えない状態で…。

さらに、ウチの事情もなかなか難しいものがあり…。

しかし、母は鍵のつかない部屋の老人施設はいやだと強く主張。

いろいろと考えた末、母をサービス付き高齢者用賃貸住宅なるところに移ってもらう事で合意がとれて実行とあいなったわけです。

しかし…。いざ話しを進めると意外な所から立ち上がる種々の困難があったり
話しが二転三転したり、いやもぉここ数週間は娑婆の修行を感じました。

他人であれば容易い事も実の母という事でかなりのストレスに成ってしまう事もあるのだなぁって改めて実感しました。
あるいみ本当に自分というものを見つめた日々でもあったように思います。

20日に母が生活に必要なものを取りあえず運び込み母は無事に引っ越しをしました。

取りあえず大山は超えたような感じなのですが、まだ、以前独居していた団地のゴミ部屋と化していた母の住んでいた部屋の片付けや、解決しなければならない問題は残っているのですが…。

取りあえず 御無沙汰のご報告という事で…。

写真は母が住んでいた団地から見た丹沢方面です




2014年10月9日木曜日

おのれって見えにくいッス…

ええと、今、お坊さんが無料でご相談にお答えする相談サイト
「hasunoha」というサイトで、私もたまにご相談にお答えする事があります。
(私が相談答えられるのかってツッコミが 来そうですが…^^;)
http://hasunoha.jp/

昨朝、そこに「自分が信じられるようになりたい。自分の軸を見つけたい」
という10代の方からのご質問がありました。

いや、私それにお答えしたわけでは無いのですが…。
凄く考えさせられたんですよ。
おそらくこの質問、多くの大人がやはり疑問に思っている事だろうと思います。

そもそも、最近の10代って本当に凄いと言うか…まさに子供に学ぶ感じですね。



 回転しているコマの上に乗っては軸は見えないですよね。
軸を見つけるには、
そのものを全体を見れる所から観察しなければみつかりませんよね。

 そう、自分と呼んでいるこの身体の中に意識が閉じこもった状態では
おそらく「軸」は見つけられないのではないかなと思うのです。

想像で意識を身体から飛ばして
身体の外から自分を俯瞰してみてはいかがでしょうか?

自分などんな風に何をしているように見えますか?
自分の周りに対してどんな風に振る舞って、
どんな事を言っているでしょうか?

ここでは小さな意識で善悪を判断したり批判はしない方が良いと思います。
ありのままに見ないと、本当の自分の「軸」は見えないでしょうから。
まず、ありのままの自分の姿を見てみますね。
ありのままの思い。
そして外からの刺激に対するありのままの反応。

それらをじっくり見てみます。

すると、だんだんと自分の軸が見えて来ると思います。

自分がそれを中心に動き、感じ、考え、判断している、その「軸」が
たとえ自分が好ましくないと思っても軸をふらふらと変更しようとしないで、
それを受け入れてから、調えて行けば良いのかなって思います。

軸は進化して行くように思えるからです。

 軸は変えるものではなく、進化させるものなのかなと思うのです。

そして、信じるのは小さな「自分」ではなく

宇宙いっぱいに広がる大きな自分……

って思ってます。


…にしても、この文章なんか疲れません?
もっと親しみやすく描きたいなとか思ってます。^^;







2014年10月7日火曜日

私の頭は芽の多いジャガイモ的

昔〜。まだ仏教と出会う前…学生時代に読んだSF小説の中で凄く印象深かったものがありました。

アーサー・C・クラークの「地球幼年期の終り」というSF小説です。
有名ですのでご存知の方も多いと思います。

引っ越しを重ね、今は手元にその本はありませんが…。

今となっては内容もうろ覚えになってしまいましたが…
でも、読んでいて当時はすごく興奮したのでした。

こんな風に世界観を広げて書くって、本当に凄い…って。
ストーリー構成も凄さに絶句したのを憶えています。

こんな作品が紡ぎ出せたらどんなに楽しいだろうか……。

宙を見上げ、ただ溜め息を吐く学生時代の私でした。

当時すでに漫画を描くのが好きで、
ヘタなりに描いたりしていたのですが
何もかも絶望的なレベルの違いを叩き付けられながら
でも、すごくワクワクしていたのを憶えています。

…しかし 、その感覚をずっと忘れてしまっていたのです。
そしてふっと最近その事を思い出したのでした。


そうそう、その本の重要キャラクター「オーバーロード」の
作品の〆の言葉が確か…こんなだったかな…

『私たちは永遠の命を持っているが、
何も生み出す事も進化する事もできない。
君たち人類が短い生命の中とはいえ、
生み出し、進化すると言う点においては
羨ましく思うのだ』



 そう、人は皆 時間には限りがあるんですよね。

どうせならその時間を、自分の舞台を、突き抜けてみたいものです。



2014年10月6日月曜日

生き方を改めて見てみる

何かが変わるという事は、
何かを捨てるという事は、

自分の生き方を見つめる事になるんですね。

それが、自発的であっても偶発的なことであっても…

 人間は持ち物や形に大きく左右されるモノなのかもしれません。

断捨離が人生を左右するのもうなずけます。

自分は何を持っているのかは、自分は何をする人なのかに繋がるんですね。

心が身の回りの環境に大きく作用している、
いやむしろ鏡であるという事はよく聞きますが、

そんな事言われたって…と悲しくなる事も多いと思います。

でも、逆も真なりってわけで

自分の周りの物や自分自身の姿や服装を変える事で
自分の在り方を自分に問うてみる事もできるわけで…

そもそも、自分ってもん自体が本来は不定形ですから…。

姿を少し変えたり意識の立ち位置を少し変えたりして
もっかい自分を俯瞰するとと〜っても新鮮です。

今ある自分を活かすために、
今自分がどんなであって、何をしているのか
批判をせずに受けとめてみるのもいいですよ♬

次ぎの一歩を楽しむために…


   




2014年10月5日日曜日

修行初期の坊主頭に戻りました

有髪の尼僧でしたが、坊主頭に戻りました。

戒律を守ろうとかそういった高尚な考えではないです。

日々拝んでいて、なんかこう…とっても邪魔に思えて来てしまいました。
ここのところそれで悩んでいたんですが家族の許可を得て
まず丸刈りにしました。

でも、なんかやっぱまだ邪魔感があるんで剃ろうと思っています。

何なんでしょうねー。
これが凄く無理のない自由な状態な気がしています。

仏教への憧れとかお坊さんとしての形とか…そういった高尚なものとは
少し違うのだろうと思います。

ワガママなのだろうなと思います。
こんな母親とか妻とかイヤですよね!
自分でも本気でそう思います。

私は師僧寺はあっても自分が寺の出身ではないのでお寺に住んでいるわけでは無いし
世間から見たら本当に怪しいだろうなと…。

髪の毛がある事で、一般の方々の悩みや本音をより気安く話して頂けた事も多かったのではとも思います。

今の自分に取って悔いの無い選択ではあったと思います。

この後お寺勤めするとかそういったことはありません。

あくまで私個人の問題でした。