2016年2月29日月曜日

強さ そして 優しさ その④



ここ数回、いろいろと強さに関して書いてきました。

何で強さにこだわるのか…とお思いの方もおいでですよね?
それは以前の私が「強さ」を勘違いしていたからです。

ええもぉ、学生時代は武術に凝って道場をいくつも掛け持ちしました。
三九の竹刀に鉄柱を仕込んで素振りしてましたし…。
さらに難しい本を読みまくったこともありました。

…でもね。違ったんですよ。
強さって腕力でも論破することでもないんですよね。

本当の強さは自分の心をどんな時であれ じっと見つめられることなんです。
困難の原因として環境や他人を責めるのは違うな…と感じました。

どんな時も原因は自分の中にあるのです。

そうしていくと、人に対する感情も違って来るのです。

私はまだまだ至らぬことが多いですが…。

本当に強いと言うことは、優しいと言うことにも繋がるのだと思います。

かなり苦しい思いをしながらも、おのれの心を見つめて来た強い人は
人の痛みを知っているわけです。

だから人の痛みに寄り添おうとすることが出来るんですね。

仏の慈悲とは、とことん寄り添うことだと思うとある友人が言っていました。
私も本当にそうだと思います。

しかし、人によって人生経験も価値観も違います。
そこに完璧に寄り添えるのは仏さましかいないのだと思います。

しかし、ほんの少しでもそこに近づいて行ければと思いますが…。
寄り添うつもりで、人の心に土足で上がり傷付けてしまうこともあると思います。
(私、よくやってる気がします。ごめんなさい!)

そして、時に、世の中には「厳しさ」を優しさと言う方々がおられますが、
それは本当に難しいと思います。

「寄り添う」のとは違い、大きく人を傷付けてしまう可能生があるからです。
ましてやそこに本人も気づかぬ「うぬぼれ」がこっそり入っていたら
百害あって一利無しとも言えるかもしれません。

親が幼い子供の火遊びや危ないことをたしなめるのには
「厳しさ」が必要ですし、

そして不良少年を叱咤する教師が少年を案じ厳しく怒るのは大切ではありますが、

しかし、時として間違った怒りとなって親や教師のストレスを解消してしまうこともあります。事件にもなっていますよね。
その場合の相手の被害は計り知れません。

本当に慈愛のこもった「厳しさ」も仏さまにしか使えないように思います。

「寄り添う慈愛」にしても、「厳しい慈愛」にしても、
おのれの中に「うぬぼれ」が少しでも無いか…
やはり…厳しく厳しく自分の心を見つめなければならないと思います。


そんなこんな思うと……。

まず、心の痛みを訴える人に
仏さまの寄り添う慈愛と厳しい慈愛が必要なだけ注がれることを
信じることが…大事なのかなと。

つまりは、その人自身が痛みを乗り越えられるということを
信じることが大事なのかなと思うのです。

その上で、よくよく考えて、
出来ることをさせて頂くと言うことが良いのかもしれません。




ええと…、支離滅裂になりつつあるのでまとめます。




強さとは、何事も自分以外のせいにしないで自分の中を見つめること。

優しさとは、その人の明るい未来をとことん信じ抜くこと。




これは理論ではありません。
全ては仏さま…。

捨て台詞でも「おめぇーなんか信じられるか!」
なんて言わないように気をつけたいと思います。
そのセリフ、とりもなおさず自分に向いていますから…。





画像は『幸せを呼ぶ仏像めぐり~仏さま神さまキャラクター帳~』より文殊菩薩様
(山本貴嗣先生!キャラ帳の制作のときは ありがとうございます!^0^)
追記:画像は制作途中の教典が蓮華の上に乗っける前の画像でした〜〜〜
本を見ると乗ってるので納得頂けると思います。すみません!!!
これもレアな画像としてお楽しみください)

2016年2月27日土曜日

強さ そして 優しさ その③

 

やはり今日も心に向き合う強さについてです
実体験を元に今日は書きますね。

パワハラってありますよね。

強い立場の上司とか先輩とかが、目下のものに暴言を吐いたり
とんでもないこと言いつける状況のことです。

しかも、パワハラする連中は
「お前の為に言ってやってる」
という武器を使うのが常套手段です。

本当にその人の為を思って言う苦言であれば言われている方も
魂でわかるものです。それは痛くても素直に受けとれる言葉になっています。
心に愛があれば必ず解るものだと思います。

投げつける言葉が、その人の心をエグルような言葉ばかり選んでいるのは
ただ、叩きのめしたいという衝動を当の本人も気がつかないで
「お前のため」という言葉に陶酔して
自分は愛情で言っていると錯覚して
叩きのめしたい気持ちを晴らしていたりすることも多いのではないかと思います。

大変辛い状況ですが、やはりそんな状況を呼んでしまう原因は
自分の心の中を見るのが一番早いのです。

本当に辛い状況で心の中を見つめるのは大変困難です。

心の波が少し穏やかになるのを待って心の中を見てみると
恐らくこれかなというキーワードが出て来ることもあるのではないかと思います。

私の場合は
「認められたい」
という子供のころからのトラウマがありました。

そんなトラウマを持っているということを確認して自分を受けとめると
「認められなくても良い」
という新しい意識が出て来ます。

そうなんですよね。
パワハラするような相手に認めてもらう必要なんて皆無です。
論争もだいじな人生の無駄使いな気がしませんか?

そもそも、何か人に「認めてもらう」ために何かやろうとする事も変なんですよね。

逆なんですよ。

本当にやりたいこと、やってしまうこと、
生き甲斐を感じることを楽しくてやってしまって
……その結果が人に認められたりするのではないかなと……
そんな風に思うのです。

水木しげる先生の幸福の七か条の中の二か条目に

しないではいられないことをし続けなさい
(人に迷惑のかからないことであることは必須ですが…)

とありますが、正に そうだと思うのです。

「認められよう」としてやることって正直ちっさいですよね。
本当に心が喜ぶことは出来ないと思うのです。

だから、パワハラが起こるってことは……
そこは自分の居場所では無いと言うことなのかなとも思います。
大切なのは心も身体もそこに縛られないことです。




自分が自分をちゃんと認めていれば
人生は人に認められる必要なんかないんですよね。






画像は仏さまカードから「軍荼利明王」です


2016年2月23日火曜日

強さ そして 優しさ その②

自信って何でしょう?

「自分」を「信じる」と書きますよね。

自分の何を信じるのでしょうか?

今まで自分がコツコツと努力して来たことでしょうか?

もちろんそれも あるとは思うのですが…。

…それだけでしょうか?

アドリブに強いとか、土壇場に強いとか…

自分でも不思議と力が涌き起こって、良い結果を出した記憶がありませんか?

私は思うのです。

自分の心の奥底から繋がっている仏さま(宇宙の根元の存在)を
信じきれる状態を、本当に自信があると言うんじゃないかなと…。

だから、その状態だと物理的な結果はどうであれ、
自分に取っては一番良い結果になる…。
そんな風に思うのです。

だから、本当の自信を持とうとするとき、
人のあら探しをしたり、人の中傷をしたり、批判をしたりは避けるのが良いようです。

なぜならば、人の粗に目がいく時間を自分の心を見つめる時間にする方が良いからです。

人の批判などしてる時は、自分の心どころか、
心の外のしかも自分意外の存在として強く意識したものの
悪い点を自分を優位に感じながら探すことになることが多いからです。

自分と自分以外のエッジを際立たせている時に、
自分の心の底にある仏さまとの繋がりは極めて感じにくいと思うのです。

もしも、エッジを際立たせている状態で自信を持っているとしたら
その自信は何かの状況で簡単にくつがえる可能性もあるのではないかなと思うのです。

人の悪口や批判がしたくなったら、ぐっと自分を見つめて自分と向かい合ってみるのが良いように思います。

本当の自信は、どんな状況であろうとくつがえらないのですから。


…そして、本当の自信を持つにも
自分と向き合ってそこから逃げない強さが必要です。


…さて、精進します。

2016年2月21日日曜日

強さ そして 優しさ その①


強さって何でしょう?

酒に強い、学問に強い、地図に強い、武道で強い、地元で強い…etc…。
いろいろありますが、
一人の人間としての「強さ」を考えてみましょう。

筋骨隆々の人が物を叩き壊すのも…確かに力が強いのですが…。

私は、「自分と向き合うこと」から逃げない人を 強いなぁ~と思います。

自分と向き合うことで、その場を取り繕うような「言い訳」は消し飛びます。

ともすると自分にまで言い訳をして
何かを周りのせいにしてしまいがちな私たちは、
自分と向き合うときですら
プライドや名誉などの自分の虚像に向き合ってしまいがちです。

時として、向き合うべき「素の自分」を認めて受け入れることにも
大きな勇気と心の強さが必要な事もあると思います。

自分と向き合っていると、
心に突刺さった多くのトゲが見えて来ると思います。
トゲの正体はプライドだったりトラウマだったり…
いわゆる仏教で言う所の煩悩(ぼんのう)が原因のモノです。

このトゲは近くに風が吹くだけでも痛いような難物で
触れるととんでもなく痛いものだと思います。

だから現実の生活の中で、このトゲの近くに何かが来ただけでも
私たちは過剰に反応するのです。
「痛いから近寄らないで!」…と

その反応が起こっている時、我々は「痛い」原因を周囲のせいにします。
本当の痛みの元は「トゲが刺さっていること」なのに…。
誰かのせいで痛い訳じゃないんですよね。

でも、自分でもトゲに触れると痛いから。
…そもそもトゲの存在に気がついていないし…
痛い部分には自分でも極力近づきたくはないのです。

日常生活の中で、自分が妙に怒ったり悲しんだりの感情が動く時、
それは恐らくトゲがうずいているのです。

そんな時に「素の自分」としっかりと向き合って
トゲを抜くことが出来る人を本当に強い人だと私は思うのです。

トゲを見つけ、トゲを抜こうとするとき
働くのが仏(全てを創る元の聖なる存在)さまの力です。





画像は、じゃこめてい出版から発売された
「仏さまカード」(解説、文章:高家寺住職 北川宥智/絵:尼僧漫画家 悟東あすか)
全48枚の中の…馬頭観音さま(人々の苦しみのもとを喰い尽くす仏)

2016年2月19日金曜日

華はあくまでも自分の中に…

聖観音さまは左手に蓮華のつぼみを持っていて
それを右手の親指と人差し指で花びらを少し開こうとしている姿です。

その蓮華の花…あなたの心の中にあるんです。

人生はもしかしたら、この華を咲かせるためにあるのかもしれません。

蓮華は泥沼の中で萌芽して泥の上で泥に染まらない美しい華を咲かせます。

言ってみれば、人生も心も泥沼なのが当たり前なのかもしれません。

だって泥沼が無いと、蓮華は育たないし華も咲かせる事が出来ないからです。
泥沼が濃くて深い程きっと蓮華を育てる栄養があるのです。

そうなってくると…艱難辛苦の多い人生を歩んだ人が咲かせる蓮華は美しいという事なのかもしれません。

でも、苦しみを避けようとしてもがいていると、
泥沼の栄養は吸収出来ないようなんです。

泥沼の中にいる事を認め、そこからどんな栄養を受けとれるかが大事なのです。
泥を栄養と認めた時、初めて栄養を受けとれるのです。

泥(つらい現実)を、泥沼(環境や関わる人々など)のせいにしてしまわない事なんです。

泥(つらい現実)はあなたの華を咲かせる為にだけあると言っても過言じゃありません!

だからこそ、『自分が何を受けとれるか』だけが問題なのです。

でもねぇー、アイツ解せねぇ!…とか…バカにしてる!…とか…許せん!…とか…この状況をどうしたら…とか…自分が勉強になってもアイツも学ばせなきゃ気が済まない…とか…
っていろいろ心から噴き出して来ますよねぇ、、、、

実はね、これらは心の中から断捨離するべき心のゴミクズなんです。

自分以外のものに対する批判や烙印を押すのは、自分の心の蓮華が咲いてからにしましょう。…きっと心の蓮華が咲いたら、さらに そんなことはしないと思いますが。

あらゆる状況、あらゆる人との摩擦、自分に取って苦しく痛い事は、
自分がそれを学びとして受けとる事が出来るかどうかだけ…が問題なのだと思うのです。

そうすると…「痛み」は「仏さまの優しさ」に変わり
心の中の蓮華のつぼみが少しずつほころんで行くのです。




あなたの綺麗な蓮華を咲かせましょう



……私もがんばります。













画像は、じゃこめてい出版から発売された
「仏さまカード」(解説、文章:高家寺住職 北川宥智/絵:尼僧漫画家 悟東あすか)
全48枚の中の…
聖観音菩薩…心の蓮華を開花させる菩薩です。

2016年2月17日水曜日

破壊って言葉は悪く取られがちだと思いますが…本当にそうでしょうかねぇ?

脱皮は古い皮の破壊で起こります。
乳歯が抜ける事で永久歯が生える事ができます。

手に一杯の荷物を持っていたら、何も持てません。

人に対する印象だって、古い感情だけで見ていませんか?

こう考えてみると、「破壊」は必ずしも悪くはなく、
新しい一歩を生み出す元となるように思えます。

自分が持っている固定観念や、価値観、強い思いなど…
一旦手放すことって大事な気がします。

世の中はことごとく自分を映す鏡であると見る時、
自分が人や周りに対して勝手に作ってしまう物語は、
何であれ自分に起因しているのだと思うのです。

だから、人や事柄に対して、強い不満を抱いた時、
そこには自分の思い癖や、偏見が隠れている事が多いのだと思うのです。

心のフィルターはモノを真っ直ぐ見せない事があるのです。
事実を歪曲する力があるのです。
直感も、時としてその延長線上にあることもあるのです。

自分の心にフィルターを感じた時…
それを壊すのは、実は凄く大事な事だと思います。

だって、人間の感じる苦しみの多くは
もしかしたら、
そのフィルターから映し出されたものかもしれないのですから…

画像は、じゃこめてい出版から発売された
「仏さまカード」(解説、文章:高家寺住職 北川宥智/絵:尼僧漫画家 悟東あすか)
全48枚の中の…
大自在天…破壊と創造の神です。

気楽に…

お久しぶりです。(←いつもお久しぶりから始まるブログってどーよ^^;)

良く「勝ち組とか言う人がいますが…

「勝つ」って何に勝つんでしょうね?

某スポーツ選手が勝つために危ないお薬を使って、
すっかり自分には負けてしまった…って話で最近騒がれていますが…。

受験でも、会社でも、社会でも、
何かに勝ち残って行く事が要求され続けてるようにも見えますが…。

本当にそうなんでしょうか?

勝っていうのって、基本はゲーム感覚の楽しさだと思うのです。
そこに悲壮感や苦しさがあるようなら、
本来の方向を見失っているのかもしれないと思うのです。
ましてや勝ちを人生で要求され続ける…なんててことは実は妄想じゃないかと…。

最近、いろいろなものの根底にある原動力って
「楽しさ」
なんんじゃないかなと思うようになりました。

勝つ事が楽しくってワクワクするのだったら、
「勝ち」も有りかなと思うのですが…。

何が何でも勝たねばならんと悲壮感を漂わしたり暴力的になるなら
方向性が違うんじゃないかなと…。

幸せって、地位でも名誉でもお金でもなくて、、、、
今、楽しく生きているかって事じゃないかなと思うのです。

もし、自分で辛い事を続けておられる方は
辛さの後に来る楽しさを熟知しているからなんではないかと思うのです。

人から見たら不幸に見えても、本人が楽しく生きているのなら
その人は幸福だと思うのです。

人の幸せは、他人には全く見えないようなものだと思うのです。

肩の力を抜いて、深呼吸して、
今、楽しいかどうか…たまに自分の心を感じてみるといいかなと思います。

幸せは、あなたの心から始まる…

https://www.youtube.com/watch?v=IVgaUvjH1LI