少し前の話になりますが…
今開催されている東京博物館の「円空展」の開催の前日
その多くの円空仏は 千光寺という飛騨にあるお寺の所蔵なのですが
その千光寺のご住職とそのご一門の僧侶で円空仏を本尊に祈る法要が東京博物館でありました。
私は千光寺のご住職にお願いして混ぜて頂きました。^^
大変有り難い機会でした。なにしろ憧れの円空仏を拝めるのですから。
拝みながら、頭に浮かんで来る事がありました。
ーーーここからは悟東の妄想です(ご注意ください)ーーーーーーー
自然やすべての森羅万象を神仏としていた円空さまは仏さまを彫る時に恐らく木を開眼してから彫ったのではなかろうか…。
例えば「観音様のお姿をご示顕くださってここの民を救って下さい」という感じで。
だから鉈やノミは最小限でよかったのでは……。
どんなひと掘りも失敗ではなく個性…。
どんな人生も取り返しがつかないのと一緒。
それが円空様の祈りでもあったのかもしれない…。
でも、その円空仏が完成を見るのは……、その円空仏が人の手に渡り本当に生活の中で囲炉裏で畑で山で川でいろいろな人々の生きるその実生活の中で親しく拝まれ人々の心の拠り所となった時に完成するものだったのではないのだろうか……。
だから、円空仏には飛騨の景色が山が川がよく似合うし、飾りっけのない人々がよく似合うのではないかなぁ…。
今も…もしかしたらガラス越しに展示されるよりも、偉い人々に高い胃評価をされるよりも……生活の中で心の拠り所を求める人の手に取ってもらいたいのかもしれないなぁ…。
そんな思いが頭の中ではじけたようにぐるぐるとしてました。
ーーー以上は悟東の妄想ーーーーーーーーーーーーーー
それにしても、有り難い機会をいただきました。
千光寺のご住職さまには本当に感謝です。
忘れないうちに書いておこうと思い書かせて頂きました。
0 件のコメント:
コメントを投稿